2009年6月 7日 (日)

びわ湖沿い景勝名刹二観音

寺社集印=滋賀・近江八幡、安土

5020 大津市から琵琶湖沿いに北上した近江八幡市、八百八段の石段と聞いてはいたが、山上まで狭くくねってはいるが自動車登山道があり、たまたまタクシーの先導もあって、助かった。姨綺耶山・長命寺(いきやさん・ちょうめいじ)西国33観音霊場第31番札所である。
景行天皇20年に武内宿禰(たけのうち・すくね)が当山に登り、「寿命長遠・諸願成就」を柳の巨木に記し、300歳までの長寿を保ち、六代の天皇にお仕えしたという。その後、聖徳太子が当山に来られ、千手十一面聖観音三尊一体の聖像を刻み伽藍を建立して「長命寺」と名付けられたという。

5021 近江国は日本のほぼ中央に位置し、「日本の臍・へそ」ともいうべき所に繖山(きぬがさやま=標高433m)別名は観音寺山。この山中に佇むのが繖山・観音正寺(きぬがさやま・かんのんしょうじ)西国33観音霊場第32番札所である。寺伝によると聖徳太子が来臨の折、紫雲たなびくこの山をご覧になり、「これぞ霊山」と思われ、千手観音像を刻まれ、堂塔を建立されたのが縁起であるという。
近江国守護職・佐々木六角がこの山に居城を築いたため兵乱に巻き込まれ、六角が永禄11年(1568年)信長に滅ぼされたので、慶長2年(1597年)にやっと再建出来たようである。万事吉祥・縁結びの祈祷道場として老若男女の尊崇を集め、四季を通じて「景勝の名刹」とされてきた。しかし整備はされていたが駐車場から本堂までの坂道は大変のものだった。
(びわ湖と西美濃の旅―5)

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2009年6月 6日 (土)

大津市の新旧二つの宮参り

寺社集印=大津市

5018 再び大津市に戻り、近江神宮(おうみじんぐう)旧官幣大社を参拝する。昭和15年昭和天皇の勅許を得て創建された新しい神宮。境内地は6万坪、社殿は近江造り、あるいは昭和造りと呼ばれる。御祭神は天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ=天智天皇)古都・近江大津京ゆかりの錦織・南志賀(現神宮町)に鎮座、天智天皇の事績は政治、経済、文化の多方面にわたり、わが国の法律の源であリ、国の大本を確立する近江令を制定された。
5019 次いで近江国一之宮である
建部大社(たけべたいしゃ)旧官幣大社を参拝。御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)景行天皇の第二皇子で文武・智勇に優れ、熊襲征伐、東夷平定で活躍、32歳の若さで崩御された。天皇は尊の死をいたく嘆かれ御名代として「建部」を定め、功名を伝えられた。源頼朝が14歳で伊豆に下向の折、永歴元年(1160年)当社に参籠して前途を祈願したと伝えられ、源氏再興を果たした故をもって、出世開運の神として武門・武将の崇敬が篤いという。
(びわ湖と西美濃の旅―4)

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2009年6月 5日 (金)

地下に埋め兵火を逃れた観音像

寺社集印=滋賀・湖北

竹生島から長浜市に戻り、役行者霊蹟札所のある大乗峰・伊吹山寺の情報を得るために東雲寺(とううんじ)を訪ねる。住職・吉田慈敬氏は伊吹山寺の復興に尽力されているからである。山麓本堂・発心堂(米原市間田204)でお会いすることにした。当寺は天台宗の檀家寺、弘仁8年(817年)伝教大師最澄上人の創建といわれる古刹、ご本尊は薬師如来。

5014_4 びわ湖沿いに北上して江州・木之本地蔵院(きのもとじぞういん)を訪ねる。ご本尊の地蔵菩薩像は天武天皇の時代に難波の浦に流れつかれたもので、勅命を受けた祚蓮上人(それんしょうにん=奈良薬師寺を開山)が諸国行脚の末、安置する場所として北国街道筋の木之本の地に定められたという大変な古刹である。

5016_2 すこし南の高月町にある 国宝・十一面観世音菩薩を安置する渡岸寺観音堂(どうがんじ・かんのんどう)を訪ねる。聖武天皇の天平8年に疱瘡が大流行し、除災の祈祷を僧・泰澄に命じられた。そこで十一面観世音菩薩を刻み一宇を建立したのが始まり。以来、病除の観音様として敬仰され、桓武天皇の延暦20年(801年)には比叡山の僧・最澄が勅命により七堂伽藍を建立して、多くの仏像を安置して隆盛を極めていた。ところが浅井・織田の戦火ですべてを焼失、寺領も没収された。住職・巧円と住民は観音像を兵火の中から搬出、しかも土中に埋蔵して難を逃れたという。明治に入り特別国宝に指定され、また昭和28年に新国宝の指定を受けた十一面観世音菩薩の像高は六尺五寸の一木彫成で、重文・胎蔵大日如来座像とともに完全耐火・耐震構造の慈雲閣(収蔵庫)に納められている。
(びわ湖と西美濃の旅―3)

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2009年6月 4日 (木)

月も日も波間に浮かぶ竹生島

5008 寺社集印=滋賀・竹生島

長距離ドライブの翌日なので、のんびりしょうと琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま)に渡った。船からは野生の桐の花があちこち見受けられ、それが満開で美しいものであった。

5009 船はそんなに混んでいなかったが上陸して驚いた。島は巡拝者で溢れ返っている。その列に従い坂道を登って、まず都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ=竹生島神社)へ。島の玄関口といったところ。

5010 竹生島・宝厳寺(ちくぶじま・ほうごんじ)西国33観音霊場第30番札所は神亀元年(724年)聖武天皇の勅願による行基菩薩の開基になる。行基は弁才天像を刻してご本尊として本堂に安置し、翌年に観音堂を建立して千手観音像を安置した(札所本尊)。
神仏分離令により廃寺の危機にあったが、何とか免れて本堂の建物のみを神社に引渡し、本堂のないままに仮安置の弁才天は日本三弁才天の一つとして昭和17年に現在の本堂が再建された。
古くは平経正が琵琶を弾いて戦勝を祈願し、謡曲「竹生島」などこの島の美しさは讃えられ、いまなお神秘とロマンが秘められた島とされているが混雑ぶりには参った。タイトルはご詠歌から引用。
(びわ湖と西美濃の旅ー2)

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2009年6月 3日 (水)

比叡山山麓にひろがる日吉宮

寺社集印=滋賀・大津市坂本

今回の「びわ湖と西美濃の旅」は土日祝日の高速料金が安くなったことでもあり、マイカー利用の旅とした。日曜日に東名・名神高速を使って、京都東インターまで一気に500kmのスタートである。
5001 比叡山に登るロープウエイの出発駅の脇に比叡山高校があり、そのグランド脇に駐車して上を見ると日吉東照宮(ひよしとうしょうぐう)とあり、まずそこに参拝。元和九年(1623年)に造営され、「権現造り」の原形といわれる。ご祭神は中央に家康公、右に日吉大神、左に何故か秀吉公。かつては延暦寺の管轄にあったが分離令により、これからお参りする日吉大社の末社になつたという。ここで頂いた「全国東照宮連合会会報」には久能山、日光、上野のほかに23社もの東照宮があるのには驚いた。

5003 滋賀院門跡・慈眼堂(しがいんもんぜき・じげんどう)は道路の下にある。元和元年(1615年)天海大僧正が後陽成上皇から京都御所高閣を頂いて、ここに移築したのが創建、「滋賀院」の号を頂いた。一万坪にも及ぶ天台座主の御座所として、地元では滋賀院御殿と呼ばれたという。慈眼堂は家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、黒衣の宰相といわれた慈眼大師・南光坊天海大僧正を祀る廊所、また境内には歴代天台座主の墓地もある。

5005 山王総本宮・日吉大社(ひよしたいしゃ)には東西本宮を中心に数多くの社殿が鎮座している神々の一大拠点。世にいう山王21社とは上七社、中七社、下七社の総称で、なかでも上七社=西本宮、東本宮、宇佐宮、牛尾宮、白山宮、樹下宮、三宮宮、は重要な位置を占めているという。全国に3800余社の分霊社があり、その総本宮である。
5006
西本宮の御祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)、大和国三輪山(大神神社)より分霊され、大津京をはじめ国家鎮護の神といて祀られた。この神は国土開拓、統治される神。
東本宮の御祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、神代の昔から比叡山の地主神で、五穀豊穣、生活の守り神とされる。現在の社殿は信長の焼き討ち後に再建された桃山・江戸初期のものであるという。境内地は13万坪という広大なもの。
(びわ湖と西美濃の旅ー1)

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2009年5月18日 (月)

ぶらぶらと歩いて桜の禅刹へ

4044 寺社集印=京都・舞鶴市

いよいよ丹後・若狭の旅も最終回となった。レンタカーを返して、西舞鶴駅前をぶらぶら歩いていると桜咲く大きなお寺があったのでお参りした。その名は
桂林寺(けいりんじ)応永八年(1401年)丹波・洞光寺四世・竺翁雄仙大和尚によって創建された由緒ある禅刹であった。
4045 ご本尊は阿弥陀如来木像、右に勢至菩薩、左に観世音菩薩が両脇侍として奉安されている。
境内一面、桜が満開であったが、なにぶんカメラ不調で、ピンボケに終わってしまった。情けなや・・・。

(丹後・若狭の旅ー19・完)

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2009年5月17日 (日)

桜咲く鹿原山の金剛院

寺社集印=京都・舞鶴市

4042 再び舞鶴に帰り、鹿原山・慈恩寺・金剛院(じおんじ・こんごういん)訪ねる。わきを流れる小川の土手は桜が満開であった。
平安時代初期、天長六年(829年)平城天皇の第三皇子の高丘親王によって創建された。親王は世の無常を感じて仏門に入り、法名を「真如」と称し、弘法大師十大弟子の一人として法を求めて天竺に向かい、途中で消息を絶たれたという。
4043 ご本尊の波切不動明王は白河天皇のご病気平癒のため、永保二年(1082年)若狭の国から勧請されたもの。平癒された帝は荒廃していた当山を復興され、勅願寺として「慈恩寺」の寺号を賜った。
以後このように皇室の庇護厚く、また江戸時代には歴代の田辺城主の保護を受けてきた。
(丹後・若狭の旅ー18)

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2009年5月14日 (木)

若狭富士その中腹に松尾寺

4036 寺社集印=京都・舞鶴市

舞鶴市でも最も東の端にある青葉山・松尾寺(あおばさん・まつのおでら)西国33観音第29番札所を訪ねる。
ご本尊は馬頭観世音、折りしも御開帳の時であり、ゆっくり拝見できた。33観音霊場中唯一の馬頭観音像とされ、農耕・畜産に因む守り仏として広く信仰を集めてきたという。
松尾寺は青葉山(海抜699m)の中腹に位置し、隣の福井県から見ると東西に並び立つ二つの山が一つに重なり「若狭富士」呼ばれるほど秀麗なのだそうである。火山が活動していた当時は厳しい表情をたたえ、修験道場となっていたようだ。和同元年(708年)唐の僧・威光上人が草庵を結ばれたのが始まりとされる。

(丹後・若狭の旅ー15)

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2009年5月11日 (月)

山の手に寺と神社が並んでた

4033 寺社集印=京都・舞鶴市

西舞鶴の宿の近くある慈恵山・円隆寺(じけいざん・えんりゅうじ)にお参りする。ご本尊は阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来のご三躰。
4035_2 奈良時代に行基菩薩の開創になり、火災、水害を受けながら、仏像は現在に引き継がれてきたという。建物は総門だけが当時(奈良時代)の遺構とされている。真言宗御室派のお寺で、歴代丹後守田辺城主の祈願所とされてきた。

4034 隣に朝代神社(あさしろじんじゃ)があり、ここに参拝。御祭神はイザナギノミコト。舞鶴の産土神(うぶすながみ)。
創建は天武天皇の時代、淡路島の「日の少宮」(ひのわかみや)から奉遷したのが始まりとされている。近世にいたり丹後田辺藩町方の氏神様として、崇められてきたという。

(丹後・若狭の旅―14)

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2009年5月 9日 (土)

久世の戸や松の葉ごしにあまの釣り舟

寺社集印=京都・宮津市

4023_2 天橋立駅の正面・天橋立を側面から望むように張り出した一帯が天橋山・智恩寺(てんきょうざん・ちおんじ)切戸文珠堂である。ご本尊は文珠菩薩、臨済宗のお寺で、七千坪の境内を有する。起源は遠く神話の時代、イザナギ、イザナミの神がこの地に住む悪龍を教化するために、中国の五台山より「知恵の文珠菩薩」をお迎えしたのが始まりという。古い話だ。
4024 山門を出て廻旋橋(切戸)を渡って前号紹介の北浜に至る天橋立は、その昔、神々が天に通うために架けたといい伝えられ長さ6㎞に及ぶ、天然の橋である。写真中はピンボケながら廻旋橋の閉まるところ。
4025 ここ「切戸の文珠」は日本三文珠霊場の一つで、あとの二つは
「大和安倍の文珠」安倍山・文珠院(華厳宗)奈良県桜井市字安倍
「羽前亀岡の文珠」松高山・大聖寺(真言宗)山形県東置賜郡高畠町字亀岡
だそうである。

タイトルは智恩寺のご詠歌から引用。(丹後・若狭の旅ー12)

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