2007年8月21日 (火)

栄枯盛衰これ世のならわしや

092 寺社集印=山梨・甲府市(3-3)

武田信玄公が定めた五つの寺院「甲府五山」のつづき。

その四、法蓋山・東光寺(ほうがいざん・とうこうじ)。ご本尊は釈迦如来。合掌。名僧蘭渓道隆=大覚禅師が再興し、信玄公が厚く保護したお寺という。

信玄の長男・義信は父と対立、当寺に幽閉され、自害。名門・諏訪家の当主・諏訪頼重は信玄の諏訪攻めの時、捕らえられ当寺に幽閉され、切腹。この二人の墓があるという。血生臭い話とは別に、見事な庭園(県文)、室町時代の仏殿(薬師堂)=重文、などがある。

094 その五、金剛山・法泉禅寺(こんごうさん・ほうせんぜんじ)。ご本尊は弥勒(みろく)菩薩。合掌。武田家中興の祖といわれる武田信武公が開いた寺といわれ、その墓所がある。

また織田信長に滅ぼされた武田勝頼の首級は京都六条河原にさらされた。当山の快岳禅師は妙心寺の南化和尚の力を借り、勝頼公の首級を貰いうけ、この法泉寺に手厚く葬ったという。(完)

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2007年8月20日 (月)

信玄の定めた寺院「五山」かな

087_2 寺社集印=山梨・甲府市(2-3)

宿で聞いた「甲府五山」へむかう。五山とは武田信玄が武田家ゆかりの深い五つの寺院を定めたものという。

その一(写真右)瑞巌山・円光院(えんこういん)。甲府市の北東部、花と展望のよい「つつじが崎」にあり、信玄公の正室・三条夫人の菩提寺である。

088 その二(写真左=JRのガードをくぐって突き当たりにある門)長禅寺(ちょうぜんじ)五山の筆頭にあげられる名刹。住職・岐秀元伯は信玄の学問・政道の師といわれてる。不在のためご朱印取り付け不調、残念であった。

090 その三(写真右)定林山・能成寺(のうじょうじ)信玄公の父・信虎の曽祖父、武田信守の菩提寺。境内には芭蕉の句碑、赤穂藩家老・大野九郎兵衛の墓などがある。
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2007年8月19日 (日)

領民に深く根ずくは信玄公

080 寺社集印=山梨・甲府市(1-3)

信濃路から甲斐路にはいる。まずは戦国時代きっての名将・武田信玄公を祀る武田神社。甲斐の守護神であるばかりでなく、「勝運」のご利益があるという。今盛んな風林火山のお膝元。JR甲府駅から市街を抜けて、ほぼ真北にある。

082 前の道をそのまま山にしばらく登ると信玄公が生誕の地といわれる万松山・積翠寺。ご本尊は釈迦如来。合掌。臨済宗のお寺(写真左)。
083 写真右は信玄公が産湯を使ったという古井戸。

085 「甲府五山」を訪ねる途中に甲斐・善光寺があつたのでお参りする。(写真左)信玄公が川中島合戦の折、信州善光寺の焼失を懸念し、元禄元年(1558年)善光寺如来像をはじめ、諸仏・寺宝をここに奉遷したのが、始まりという。武田氏滅亡により、慶長三年(1598年)信濃に帰座、新たにご本尊は前立仏を定めたという。合掌。因みに重文5、県文4、市文8など文化財の宝庫であるという。
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2007年8月14日 (火)

由緒ある真田の霊地上田城

078 寺社集印=長野・上田市(3-3)

塩田平を後に山手に当たる国分に向かう。八日堂・信濃国分寺(天台宗)。「国泰(やす)らかに人楽しみ、災いを除き福至る」を祈念された聖武天皇の勅願により、国ごとに国分寺が建立され、信濃国分寺は庶民の心のよりどころとして1250年の法灯を伝えているという。ご本尊は薬師如来。合掌。写真右は本堂裏の広大な蓮田。いろんな品種の蓮が長期にわたり見られるという。

073 戦国時代の智将真田昌幸公が築いた天下の名城「上田城」の中にある真田神社。古代からこの地には,天地四方を祭る「六所明神」が鎮座せられ、国のまほろばとして尊ばれており、昌幸公はこの「霊地」を適地として築城したといわれる。いまは風林火山で大賑わいである。(完)

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2007年8月13日 (月)

日本の真ん中にある宮と寺

071 寺社集印=長野・上田市(2-3)

上田市下之郷、田園地帯の一角にこんもりと茂った森、「日本の真ん中」という生島足島神社(国幣中社)がある。名前のとおり生島(いくしま)大神と足島(たるしま)大神をお祭りしている。国中を満ち足らす、日本国土の守護神とされている。かの武田信玄が川中島の決戦を前に家臣団に忠誠を誓わせたという「起請文」など、「生島足島文書」94通は国の重要文化財に指定されているという。

075 さて、敷地を同じくする長福寺。本堂に向かう道端に(写真左)可愛い「なかよし地蔵」が迎えてくれた。
076 この一帯は「信濃の国・塩田平」といい、上田駅から別所温泉にいたる上田電鉄の沿線に、四国霊場八十八体仏の勧請が許された札所巡りがあった。元禄六年(1693年)とのこと。その後、中断があり、忘れ去られていたが、土地の北条家の古文書により、長福寺を一番札所「遍路堂」とした計二十一ヵ所の地名と寺堂、仏像の名前まで判明したという。ここに来て、三百年目に復興されたのだという。こう聞くと札所巡りをしてみたい誘惑にかられる。
(つづく)
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2007年8月12日 (日)

温泉を囲む形で古名刹

064 寺社集印=長野・上田市(1-3)

7月26日号で触れた別所温泉に入る。古刹・名刹の多くあるここ別所温泉は「信州の鎌倉」といわれる。まずは北向観音堂。南向きの長野善光寺と向き合っているところから名付けられたという。写真右は不動堂。

066 道を隔てて右に入ると安楽寺。ここには全国唯一といわれる八角三重塔(国宝)。鎌倉時代に建てられたものと言う。

068_3 さらに右手に迂回したところに天台宗別格本山・常楽寺。林を背に茅葺屋根の凛とした雰囲気が境内に漂っていた(写真右下)。ここには全国でも珍しい石造多宝塔(重文)があるそうだが、見てこなかった。

069 山を下る途中に、一寸時期は過ぎたか?紅白の睡蓮が目を楽しませてくれる。このほか前山寺の三重塔(重文)、中禅寺の薬師堂(重文)また、めずらしい夫婦道祖神など多数あり、また訪れたい地域ではある。
(つづく)

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2007年8月 4日 (土)

川中島古戦場から松代へ

058_2 寺社集印・長野市

松代町に向かう途中、いま話題の風林火山・川中島の古戦場に寄る。そこに八幡神社があった。写真右は境内にある銅像。

059_1 左は古戦場風景(多分千曲川の堤内の池と思われる)。この歴史的景勝地を八幡原と言うのだそうだ。

060_1 松代町に入り、まず幕末の大先駆者といわれる佐久間象山を祀る象山神社(ぞうざんじんじゃ)。彼は松代藩士佐久間一学の長男として1811年に生れ、1864年京都で公武合体開国を説いたが、尊譲派の凶刃に倒れた。四年後の明治維新で彼の尊皇開国論がそのまま具現した。大正二年象山殉難五十年祭を契機に神社建立の計画が進められ昭和十三年十一月三日、県社として創建されたという。

062_2 信州真田家の菩提寺・長国寺。1547年真田幸隆公が真田郷の松尾城内に真田山・長谷寺(しんでんざん・ちょうこくじ)として建立、本格的な禅刹だったが、1622年上田藩主真田信之公の松代移封にともない現在地に移転し、寺号も長国寺と改められたという。伝統的な曹洞宗学を教授する僧堂もあり、凛とした空気が漂っている。
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2007年8月 3日 (金)

かるかやで石童丸の「絵解き」聞く

054_1 寺社集印・長野市

車を出して善光寺裏山にある雲上殿に登る。(写真右)大峰山の中腹にあり、ここから善光寺平が一望できる。古くから伝えられる納骨・分骨の習慣を受け継ぐために建てられたのだそうだ。宗派を問わず利用されているという。

055_1 山腹を西に迂回して刈萱地蔵・往生寺(かるかやじぞう・おうじょうじ)を訪ねる。だらだら坂100mの掲示を見て登ったが、その倍ぐらいあったと思う。次に訪ねる西光寺と同じく、刈萱親子地蔵尊をお祀りしてある。合掌。写真左。

056_1 市内に入り「絵解きの寺」刈萱山・西光寺(かるかやさん・さいこうじ)に着く。長野市のど真ん中、中心街にある。その昔、善光寺南大門とも称され、善光寺参詣の人々が必ず立ち寄る寺として栄えたそうだ。また、絵解きの中の石童丸にちなんで、石堂町と呼ばれるほど、地元でも広く親しまれ、慕われて来たお寺といえる。写真右は刈萱上人と御子石童丸の像。ご本尊は勿論、刈萱親子地蔵尊。合掌。
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2007年8月 2日 (木)

遠くとも一度は詣れ善光寺

33152_1 寺社集印・長野

定額山・善光寺(写真右は本堂)

「牛に引かれて善光寺まいり」の信州善光寺。ご本尊は一光三尊阿弥陀如来。合掌。今年再建三百年で賑わうことだろう。

051_6 経藏=本堂左にある宝形造のお堂。内部中央に八角の輪蔵があり、「一切経」が収められている。 付属している腕木を押廻すと、一切経を全て読んだのと同じ功徳を得られるという。写真右は六地蔵。三門(現在改修工事中)を出て左側。我々衆生をお救いくださる菩薩さま。

048_1 左の写真が大勧進=住職は貫主とよばれ、代々比叡山延暦寺から推挙されるそうだ。善光寺如来と不動尊をお祀りしているという。天台宗。また、次の大本願の上人とともに善光寺の住職を務める。

仁王門の手前の左の宿坊群の中にある世尊院釈迦堂。わが国唯一の等身大(1.66m)の銅造の釈迦涅槃像、鎌倉時代の作といわれるが、お目にかかれず。

            仁王門の外、本堂に向かって左手(052_2 写真左)が浄土宗大本山・大本願。善光寺創建からの尼僧寺院。代々尼公上人を住職とし、皇室関係の方が入山されているとか。善光寺如来と文殊菩薩をお祀りしている。合掌。
053_2

本堂左奥に忠霊殿がある(写真右)。戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦没者、240万余柱の英霊を祀つているという。わが国で唯一の仏式による霊廟である。合掌。

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2007年7月26日 (木)

梅雨空の合間をぬって信濃路へ

33152 坂東33観音(別格)・長野

上信越道をひた走り長野市へ。裏の駐車場から南向きの定額山・善光寺の本堂をお礼参りする。さすがに堂々たる佇まいである。今年は再建三百年に当たり、年間を通してさまざまな行事が行われるようだ。経藏、大勧進、いったん仁王門を出て大観音、引き返して世尊院、ぬれ仏、六地蔵を参拝して忠霊殿へと忙しい。さらに車を出して雲上殿まで登って来た。

33153 翌日上田市の別所温泉へ。北向観音堂で合掌。これがお礼参りのペアーなのだそうだ。ここの境内の愛染桂が有名と聞いた。

ここは信州の鎌倉と云われるほど古刹が数多くあり、なかでも安楽寺、常楽寺(天台宗別格本山)が有名だ。逐次紹介の予定。

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2007年6月17日 (日)

味噌をなめ茶をすすりけり関興寺

131 寺社集印の旅=新潟・南魚沼市(2)

南魚沼市塩沢エリアの六寺、後半の三寺を紹介。

132 樺沢城は樺野沢集落の西側に張り出した高さ300㍍ほどの丘の上にあり、中世越後府内(春日山)から関東に抜ける要衝であった。(写真右上)

谷を挟んで上杉景勝公生誕の碑のある龍沢寺(りゅうたくじ・あやの文殊)=臨済宗のお寺。ご本尊は文殊菩薩(三人寄れば文殊の知恵の喩え)。合掌。

116 境内に樹齢400年、高さ40㍍、幹周り14㍍の大カツラのある真言宗の薬照寺。(写真右が大カツラの木)

118 宝物殿には東洋の芸術品多数展示され、戦後ビルマの宰相バー・モウが隠棲したお寺という。

写真左は前回に紹介した「味噌なめたか」の、600巻もの大般若経を味噌ダルに納めて戦火から守ったという経藏と石庭。「土踏んだか」の雲洞庵と並ぶ、こちらは臨済宗の古刹、最上山 関興寺(かんこうじ)。ご本尊は釈迦牟尼仏。合掌。

古来禅院では味噌は欠かせぬ119 重要な食品であった。関興寺でも数多くの修業僧のための味噌を独自で作り、貯えていた。天正六年上杉謙信没後、景勝、景虎の家督争いに巻き込まれ、諸堂が消失した際に大般若経は味噌ダルに貯蔵されて難を逃れた。爾来この味噌を頂く者、大般若経のご利益にあずかり、福徳が授かるとなった。写真右は仁王門と「味噌なめたか」のカンバン。

次回は帰途に寄った群馬・みなかみ市の三寺紹介の予定。写真をクリックすると拡大。

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2007年6月16日 (土)

じっくりと「土踏んだかよ」雲洞庵

寺社集印の旅=新潟・南魚沼市(1)108

同窓会が越後湯沢であり、この機会に南魚沼市塩沢エリアにある六寺を訪問できた。まず、うち三寺を紹介。

関越道塩沢・石打インターを出て、まず越後33観音・第十一番 金精山 大福寺(真言宗)。巻機山と金城山の懐に位置し、山門を入ると落雷により半分焼失したとはいえ、樹齢八百年という銀杏がある。ご本尊は阿弥陀如来。合掌。ほかに薬師如来像、三社託宣、十二尺画像など寺宝として保存されているという。上杉謙信関東管領のおり祈願所になった(写真右上)。

110同じ 金城山の麓、樹齢300年という杉の大樹林に覆われた曹洞宗の名刹 雲洞庵(うんとあん)。ご本尊は釈迦牟尼仏それに脇侍、迦葉尊者、阿難尊者、十六羅漢を安置している。合掌。写真左は赤門(仁王門)を入ると本堂正面まで石畳がつづき、法華経を一石一字刻まれている。「雲洞庵の土踏んだか」は次回紹介の「関興寺の味噌なめたか」と、この二大禅道場で修行しなければ一人前の禅僧とはいえない。またこの石畳を踏みしめてお参りすると罪業消滅、万福多幸のご利益にあずかると、この信仰が大変盛んであったという。

112 越後33観音・第十二番 飯盛山(はんじょうさん)天昌寺。曹洞宗のお寺。ご本尊は聖観世音菩薩。それに持国天王、多聞天王の三木像は鎌倉時代の作とされ県重要文化財指定。合掌。当寺は「北越雪譜=寺のなだれ」の舞台となり、雪国での伽藍維持に難渋した住職・檀信徒の苦労が偲ばれる。つづく。写真をクリックすると拡大。

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