2009年6月18日 (木)

この滝は老を養う霊水や

5032 寺社集印=岐阜・養老町

今回の旅も最後になった。瀧寿山・このた元正院・養老寺(ろうじゅざん・げんしょういん・ようろうじ)で頂いた「養老志」によると明治13年太政官布告で開設の由緒ある公園。往古には元正、聖武の二帝の行幸があるほど、名瀑と名水がある歴史、景観兼備の名勝地とされている。
5033 瀧からだらだらと下って来ると
養老神社があり、わきに「菊水霊泉」なる湧水池、さらにその下には滔々と流れ出る水汲み場があった。
美濃国・多度山で「滝の水」が酒になり、父親を喜ばせたという貧しい孝行息子・源丞内の話は奈良の都にまで聞こえ、元正天皇は霊亀3年(717年)当地に行幸になり「老を養う水」と褒められ、年号まで養老元年と改められたという。養老二年には七堂伽藍が創建され、寺号を賜り、滝守護不動明王(県重分)を勅納されたという。

5034 大垣市に帰り、橘・八幡神社(たちばな・はちまんじんじゃ)に参拝。御祭神は応神天皇・神功皇后、後醍醐天皇の正慶建武の頃、南都梨原宮(東大寺鎮守)を藤江村に勧請、宝徳3年に大垣に遷座された。社殿は昭和20年空襲で焼失、26年に再建されたものである。
(びわ湖と西美濃の旅ー10 完)


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2009年6月17日 (水)

虚空蔵さん奇岩怪岩を背負ってる

5029 寺社集印=岐阜・大垣市

大垣市に移動して、美濃荒尾の御首神社(みくびじんじゃ)に参拝。平将門公の御首をお祀リして、霊を慰めるために創建されたという。その由来とは今から一千年前「天慶の乱」で将門は首を打たれ、京で晒し首にされた。その首が関東に向け飛び立ったので、美濃国南宮神社は隼人神にその首を射落させた。落ちた処がここ「荒尾の地」であったというのである。

5030 赤坂の虚空蔵尊、金生山・明星輪寺(きんせいざん・みょうじょうりんじ)をお参りする。持統天皇の勅願により朱鳥元年(686年)役行者・小角の創建という。ご本尊は虚空蔵菩薩。被災復興を繰り返し、慶長14年美濃高須の城主・徳永寿昌公によって、ほぼ再建され、江戸時代に入り大垣藩主・戸田家の代々の祈願所として保護されてきた。
金生山は海抜200m、当寺は濃尾平野を一望できる3万坪の境内を有する。その中に名勝・岩巣公園を含み、巧みな造形により、カルスト台地の縮小版として、石灰岩層の無数の奇岩怪岩が群立している。
(びわ湖と西美濃の旅ー9)

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2009年6月16日 (火)

岐阜にある大仏さんの正法寺

寺社集印=岐阜市

5027 岐阜市に出て井奈波神社(いなばじんじゃ=旧国幣小社)に参拝。御祭神はイニシキイリヒコノミコト(第11代垂仁天皇の長男、第12代景行天皇の兄)武事に秀で、内政、土木、軍事など、あらゆる面で活躍されたという。薨去の翌年(景行天皇14年)遺徳を偲び現在の丸山の地に鎮斎されたのが始まりという。
当地は揖斐、長良、木曽の三大河川に恵まれた反面、洪水に悩まされても来た。その意味で伊奈波神社は水を防ぐ信仰の神社であったようだ。

5028 近くにある日本三大仏の一つ「岐阜大仏」で知られる金鳳山・正法寺(きんぽうざん・しょうほうじ)にお参りする。当山11代の惟中(ユヰチュウ)和尚は大地震、大飢饉の災霊の祈願を立て、奈良東大寺大仏の聖徳を敬って、ここに大釈迦如来像の建立を計る。
周囲1.8㍍の大イチョウを真柱として、骨格を木材で組み、外部は竹材にて編み、粘土を塗り、漆を施し、金箔をおいたという日本一の乾漆仏。
惟中和尚は苦業25年の末、完成半ばで没し、12代の肯宗(コウシュウ)和尚が志を継ぎ、さらに苦業13年を費やして、天保3年に完成したという。
因みに大仏の像高は13.7㍍
、顔長3.6㍍、胎内仏として薬師如来像が安置されている。写真をクリックすると拡大。
(びわ湖と西美濃の旅ー8)

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2009年6月14日 (日)

一年半やっと迎えし満願寺

寺社集印=岐阜県・揖斐川町

5023 2007年11月13日那智勝浦・青岸渡寺(第一番)を皮切りに、西国33観音霊場札所巡りも一年六ヵ月を経て、ここ谷汲山・華厳寺(たにぐみさん・けごんじ)第33番札所で満願となる。「坂東」に次いで「西国」の満願には、やはり独特の達成感に満ちたものがあった。
5024 桓武天皇の延暦17年の創建とある。奥州白川郷の大口大領が京で大悲十一面観世音像を求めての帰途、この谷汲に至って尊像が動かなくなり、この地に精舎を建てたのが始まりという。この話に醍醐天皇は勅願され、谷汲山の山号と華厳寺の扁額を賜ったという。

5025 両界山・横蔵寺(りょうかいざん・よこくらじ)は伝教大師自作の薬師如来を祀った寺で、比叡山の薬師如来と同じ木から作ったといわれる。平安、鎌倉時代にはこの辺の本山として、学問や文化の中心として栄えたが、戦国時代には次々と寺領を侵略され、元亀の法難には信長に全てを取上げらるという苦難の時代があったようだ。
5026舎利堂に
妙心上人の舎利仏が自然のまま安置されている。妙心上人は天明元年(1781年)ここ横蔵で生まれ、巡礼の旅に出て全国を巡り、信濃・善光寺で受戒、その後、自ら富士大行者と称して富士講の先達を勤めた。文化12年(1815年)洞窟で断食して入定。上人の遺体は山梨の村民によって祀られてきたが、明治23年に出生地の横蔵寺に帰ってきたのだという。
(びわ湖と西美濃の旅―7)

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2009年6月13日 (土)

この旅も伊吹を過ぎて西美濃へ

5013 寺社集印
滋賀・米原市→岐阜・垂井町

(6月5日号)長浜市・東雲寺で伺った米原市間田にある伊吹山寺の山麓本堂・発心堂に吉田慈敬住職を訪ねる。
仁寿年間(851-854年)創建になる
大乗山・伊吹山寺(だいじょうざん・いぶきさんじ)役行者霊蹟は「三修」の開基、それを昭和60年に吉田住職によって山麓に発心堂を、八合目(標高1200m)に行者堂を、さらに山頂に覚心堂をそれぞれ再建されたのだという。
予報通り伊吹山は完全に雲に覆われ、残念ながらここの遥拝場で御無礼することにし岐阜県にむかった。

5022 美濃国一之宮とされる南宮大社(なんぐうたいしゃ=旧国幣大社)を参拝。主祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)天照大神の兄にあたる神様。全国の鉱山、金属業者の総本宮として、深い崇敬を集めている。
慶長五年(1600年)関ヶ原の合戦の兵火で焼失したものを、寛永19年(1642年)家光公によって再建されたのものが現在の建物。広い境内には本殿・拝殿・楼門など、朱塗りの華麗な姿を並べ、江戸時代の神社建築の代表的遺構18棟が国の重文に指定されているという。写真をクリックすると拡大。
(びわ湖と西美濃の旅ー6)

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2007年10月30日 (火)

伊勢路にて参った寺社は二十一

079_4 寺社集印=三重・伊勢市(16-16)

ここ二見町には伊勢西国33観音霊場第一番札所があるので、今回の旅の締めくくりにする。それは一寸、鳥羽市方面に戻り、標識に従って右折、右手の小高い丘の上にあった(写真右)。

080 坂を登ると仁王門(写真左)、その正面が潮音山・太江寺(ちょうおんざん・たいこうじ)の本堂である。真言宗のお寺で、ご本尊は千手観世音。合掌。

081 写真右が観音堂。丘の中腹にあるこじんまりとしたお寺であるが、境内は綺麗に手入れされ、すがすがしい空気が漂っていた。まさに「潮音山」に相応しいと思った。

松阪から始めた伊勢路の旅は、無事に終わった。感謝。お参りした寺社は21、ご朱印は22。次はいよいよ西国「神あり月」を迎えた出雲の国にしょう。(完)
写真をクリックすると拡大

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2007年10月29日 (月)

蛙サン神の使いぞぞーろぞろ

074 寺社集印=三重・伊勢市(15-16)

大王崎を廻って伊勢市二見町まで帰って来た。お伊勢参りもここまで。写真右は二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)参道。
075 左手に海を見ながら進むと正面に、かの有名な夫婦岩があり、右手が本殿となる(写真左が夫婦岩)。あいにく晴天とまでは行かなかったので、いい写真ではない。男岩は高さ9m、女岩は4m、注連縄の長さは35mといわれる。

076 ご祭神は猿田彦大神宇迦御魂大神(うがみたまのおおかみ)それに綿津見大神(わたつみのおおかみ・竜宮社)。拝礼。
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)については10月13日付で紹介の通り、善導の神として、また地主神として知られる。綿津見大神は海の守護神として信仰を集めている。境内に多く見られるカエルの置物は二見蛙、これは大神のお使いと信じられ、「無事かえる」「貸したものがかえる」「若さがかえる」などの縁起ものとして信仰されているという。(つづく)
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2007年10月25日 (木)

はるばると登ればここに正福寺

070 寺社集印=三重・鳥羽市(14-16)

阿児町の立神口からパール・ロードを鳥羽に向って進み、一寸行き過ぎたが細い道(古道)を通って海上守護第一霊峰たる青峯山・正福寺(しょうふくじ)に到着。デッカイ大門から広大な境内に入ると鐘楼堂から金堂、聖天堂、大師堂、弁天堂、如意輪堂など多数の寺院群の集合である(写真右下)。
071 海抜336㍍、「雲青く気澄み、東海の天に聳える霊地」とされる。ご本尊は十一面観世音、1200余年の法燈を保っている。合掌。
072金堂、大門は30年の歳月をかけ、文化年間に完成したもので、「構造は堅牢、彫刻の美は稀に見るもの」といわれる(写真右上が大門、左が金堂)。
また、前記の志摩国七福神の恵比寿明神を祀り、四天王「厄災封じの寺」とされている。

(つづく) 註; ①写真をクリックすると拡大。②タイトルはご詠歌から引用。

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2007年10月24日 (水)

志摩の国七福神と四天王

065_2 寺社集印=三重・大王町と阿児町
               (13-16)

そのお寺は仙遊寺(せんゆうじ)。そこで志摩国七福神、四天王封じ寺を聞いた。当寺は水軍・九鬼嘉隆の先祖五代の菩提寺。さらに毘沙門天・大黒天を祀り、「ぼけ封じの寺」だという。合掌。

066 次が町に下りて大悲寺(だいひじ)。こちらは「志摩のあじさい寺」と呼ばれ、境内に千株のあじさいが植えられている。弁財天・布袋尊を祀り、「がん封じの寺」だった。

067 昼食もそこそこに鳥羽市に向う途中の阿児町の本福寺(ほんぷくじ)をお参りする。毎年春に開かれる「真珠祭り」が有名という。ご本尊の真珠観音は990個の本真珠を身にまとって居られるとか。残念ながら和尚が病気でお会い出来なかった。寿老人・福禄寿を祀り、「中気封じの寺」であった。
(つづく)

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2007年10月23日 (火)

合祀したご祭神は19柱

059 寺社集印=三重・大王町(12-16)

例の石段(写真右)をふうふう息を弾ませ郷社・波切神社(なきりじんじゃ)に到着。由緒によると明治40年、13の無格社、山祇社、琴比羅社、猿田彦社、白髭社を合祀したものという。祭神は19柱にのぼる。

060 ご朱印とお茶を頂き、雑談のうちに、古い伝説に由来する「わらじ祭」なるものを聞いて、微笑ましかった。写真左下が、それの説明であるが、拡大して、さらに虫眼鏡でご覧あれ。

061 またその折、山の中腹に寺があるのを聞き、お礼を述べて反対側の港に下りる道から、そこに向う。

(つづく)

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2007年10月22日 (月)

潮風が心地よく吹く大王崎

054_2 寺社集印=三重・大王町(11-16)

町中に車を置いて、まずは岬の灯台方面に向う。途中に小高い丘があり、そこから眺望を楽しむ。ここは写真右の波切九鬼城址公園とあり、灯台がよく見えた。055_2
写真左がそれで、絵描きの好むアングルと見た。光の具合も最高であった。
ここに昔、波切神社があったらしく、現在地を聞いて早速移動。
灯台に向って小道を登り、その脇を抜けて今度は坂を下り、振り返ると写真右下の灯台。こちらからは逆光となる。057
056 まだ涼しいとはいえないが、かっての酷暑から開放され、潮風が心地よく感じられた。
ところが、目前に迫る急勾配の石段、これを登らなくては「寺社集印」は成り立たない。それ行け。

(つづく)写真をクリックすると拡大

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2007年10月16日 (火)

こんもりと茂った森は伊雑宮

051 寺社集印=三重・磯部町(10-16)

一般に「イゾウグウ」と呼ばれる伊雑宮(いざわのみや)内宮・別宮。志摩市の入口に位置する。天照大神の遥宮(とおのみや)とも称される。

052 創祀は倭姫命が御供物を採るところを定めるため志摩国を御巡行になり、この地に当宮を創建されたという。風光明媚な志摩国は海産物に富み、古来、神宮と朝廷のご料を貢進した。

053

正殿の構造は内宮に順じ、唯一神明造、お屋根の鰹木は6本、千木が聳えている。写真右下は社務所脇にある御神木。楠の大木でかなりの古木である。根が浮き上がりすごい勢いを感じた。

(つづく)写真をクリックすると拡大

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2007年10月15日 (月)

伊勢路にも天の岩戸があろうとは

046 寺社集印=三重・伊勢市(9-16)

伊勢道を南東に伊雑宮を目指した途中に「天の岩戸」と看板が出ていたので、右折して立ち寄る。
047 天岩戸は高千穂にあるのではないかと半信半疑で細い路を入った。途中に駐車場があり、そこから歩き。
048 神話であるから諸説あるが、大体が天照大神と弟スサノウノミコトにちなむ話。道を行くとその雰囲気は出てきた。
049_2 突き当たり、左手の岩間から清水が流れ落ち、流れ降りていく。環境省選定の「名水百選」に選ばれたという旨い水だった。
正面に風穴があったが、ここは立ち入り禁止。
また天の岩戸は更に登るとあるので、ここでバックする。
(つづく)写真をクリックすると拡大

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2007年10月14日 (日)

伊勢参り朝熊かけねば片参り

042 寺社集印=三重・伊勢市(8-16)

「お伊勢参らば朝熊をかけよ。朝熊かけねば片まいり」と云われるので、霧雨の中、朝熊岳・金剛證寺(こんごうしょうじ)へと向う。昔はそれこそ難所であったろう朝熊岳も、今では伊勢志摩スカイラインなるものが出来て、約15分だった。写真右上は見上げる仁王門。

043 「心やすらぐ日本人の霊場」とうたわれる当寺は伊勢神宮の鬼門を守る寺といわれる。写真左は連間(つれま)の池と連珠橋。
044 写真右は本堂摩尼殿、ご本尊は福威智満虚空蔵菩薩。合掌。
孝源院(文殊菩薩)、望海院(普賢菩薩)、与楽院(矢負地蔵菩薩)、奥之院(延命子安地蔵菩薩)など寺院群(重文多数)が点在している。
045 本堂左に福丑(ふくうし)右に写真の智慧虎(ちえとら)の像があり、皆で「あやかりたい」と鼻先や頭を撫でるのでピカピカ光っていた。
(つづく)写真をクリックすると拡大

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2007年10月13日 (土)

神宮は千古の森に囲まれて

036_2 寺社集印=三重・伊勢市(7-16)

内宮に至る交差点の所に猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)がある。
035 主神は猿田彦大神。物事の最初に現れ、万事最善の方向へ「おみちびき」になる神様。建築、方除け、災難除け、開運、事業発展、五穀豊穣など、豊富な御神徳があるといわれる。
本殿は二重破風の妻入造で立派なしつらえ。重厚な空気が漂う。

038 いよいよ皇大神宮・内宮(こうたいじんぐう・ないくう)の参拝である。皇室のご祖神の天照大神を御祭りする、わが国で最も尊いお宮。五十鈴川の川上に千古の森に囲まれ、二千年の時を越えて古代のたたずまいを今に伝える。
039 宇治橋を渡り右へ、一の鳥居から左へ、二の鳥居を更に進んで一番奥・左手に御正宮。四重の垣根に囲まれ、唯一神明造(ゆいいつしんめいずくり)の古代様式。040_2 茅葺の屋根に10本の鰹木(かつおぎ)が乗り、4本の千木(ちぎ)の先端は水平に切られている。
手前には平成25年に式年遷宮の新御敷地(しんおしきち)が準備されている。広大な宮域内には神楽殿、荒祭宮、参集殿、子安神社などが点在している。
(つづく)写真をクリックすると拡大

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2007年10月11日 (木)

月読と月夜見ともに同一神

029 寺社集印=三重・伊勢市
          (6-16)

倭姫宮を出て内外宮を結ぶ広い通りを横切り、細い道を登ると日本最古の厄除け観音である龍池山・松尾観音寺に至る。ご本尊は十一面観世音菩薩。合掌。

当寺は奈良時代に高僧・行基の創建と云われ、本山も末寺も、檀家すら持たない、いずれの宗派に属さない単立という特異な形態で存在している祈願寺。伊勢西国33観音霊場第三番札所

031 次は内宮の別宮である月読宮(つきよみのみや)ご祭神は天照大神の弟神である月読尊(つきよみのみこと・月夜見尊と同じ)。

032 写真右は月読宮であるが、並んで右に月読荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや)左に伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)伊佐奈弥宮(いざなみのみや)と四別宮が並列して鎮座している。(写真右の下)。

033_2 また前面に次の遷宮で、新しく建てられるべく、新御敷地(しんみしきち)として、整地して、これも四つに区切って準備しているのも、面白いと思った。
(つづく)写真をクリックすると拡大

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2007年10月10日 (水)

倭姫神道説の先導者

024 寺社集印=三重・伊勢市
          (5-16)

外宮の別宮である月夜見宮(つきよみのみや)に詣でる。御祭神は月夜見尊(つきよみのみこと)、天照大神の弟神に当る。当日は丁度お祭りの日に当たり、幼稚園児たちが、神妙にお参りしていた。

026 次に向ったのが緑豊かな倉田山。ここには内宮の別宮である倭姫宮(やまとひめのみや)を取囲むように神宮徴古館(じんぐうちょうこかん)神宮農業館、神宮美術館、神宮文庫と、さらに皇学館大学などもあり、まさに神宮の総合施設の集まり。

027 御祭神は倭姫命(やまとひめのみこと)、天照大神の教えをうけ、現在の地に皇大神宮を創建された神様。中世以来、伊勢の神道説は正直・清浄を主徳とし、五部の神書をもって広く唱道された。ことにその一つ「倭姫命世記」は人々から尊重されて来た。また神宮の祭祀と経営の規模を確立された。

(つづく)写真をクリックすると拡大。

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2007年10月 9日 (火)

「あこねさん」一般人に崇められ

020 寺社集印=三重・伊勢市
          (4-16)

外宮の表参道火除橋を渡って右手に行くと、勾玉池(まがたまいけ)があり(写真右)、それに沿っていくと赤い鳥居が沢山並んでいる。通称「あこねさん」茜社豊川茜稲荷神社である。

021 左は茜社(あこねしゃ)で、古代より豊受大神宮の摂社として祭事を斎行されたと推察されるという。

022 右は茜稲荷神社(あこねいなりじんじゃ)。茜社神域内に稲荷と称する岩窟があり、一般大衆はそこを豊川明神、豊受稲荷として崇めた。海の神、地の神、商の神として近郊・近在、もた遠来の崇敬者をも集め、大変に賑わったようである。
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2007年10月 8日 (月)

豊受は衣食住の守り神

015_2 寺社集印=三重・伊勢市
          (3-16)

いよいよ心の故郷「お伊勢さん」伊勢神宮の参拝。外宮から始める。豊受大神宮(とようけだいじんぐう・外宮)写真右は御正殿。苔むしたお宮は「唯一神明造」(ゆいいつしんめいずくり)の様式である。鰹木は9本、千木が垂直に切られている。
外宮は豊受大神をお祭りしてあり、天照大神のお食事を司る神様で、衣食住をはじめあらゆる産業の守り神

016 正殿を下がり右手に3つの別宮がある。左は風宮(かぜのみや)。風の神をお祭りしている。鎌倉時代の元寇(げんこう)のとき、神風を吹かせた神様。

017 右は多賀宮(たがのみや)。豊受大神の荒御魂(あらみたま)をお祭りしている。

018 左は土宮(つちのみや)。古くから山田原(やまだのはら)の鎮守神。宮域(きゅういき)の地主の神。

宇治の五十鈴川の上流にある皇大神宮(内宮)と山田原にある豊受大神宮(外宮)とを中心として、14の別宮、43の摂社、24の末社の所管社があり、「神宮」はこれらの総称とされる(つづく)。写真をクリックすると拡大

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2007年10月 3日 (水)

広域に大杉繁る瀧原宮

寺社集印=三重・大紀町011_3 (2-16)

松阪市から南西へ国道42号線(かっての熊野街道で、殆ど紀勢本線と並行)を約20㎞行くと左に滝原宮の大駐車場があり、左折して鳥居を潜ってさらに奥にはいると写真右の正面口になる。いといよ「お伊勢さん参り」の始まりである。

012 瀧原宮の宮域は44ha、地勢は皇大神宮と極めてよく似ていて、雛形とまでいわれるという。後に山をひかえて南面し、すぐ前には枝川があり、大川に落合う。
参道は1㎞にも及ぼうか?域内の鬱蒼と茂る杉の大森林は「他に比類なし」といっても過言ではなく、これこそ自然林の典型とされている(写真左)。

013 皇大神宮別宮・瀧原宮(たきはらのみや)本殿は、皇大神宮に準じた構造といわれ、神明造、屋根の鰹木(かつおぎ)は六本、東西両端には内削ぎ(うちそぎ・水平切)の千木が高く聳えている。この左に並んで瀧原ならび宮が同じく鎮座。両宮とも思った割には質素で小さく映ったが(写真右)、神々しさは十分に感じられた。
写真をクリックすると拡大。(つづく)

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2007年10月 2日 (火)

国学の発信元よ「よいほ」の森

003 寺社集印=三重・松阪市(1-16)

東海道新幹線で名古屋へ、乗換てJR快速「みえ」で松阪にいたる。駅前レンタで車を借り、駅西北500㍍ほどの通称[岡寺観音」にむかう。

002 岡寺山・継松寺(おかでらさん・けいしょうじ)奈良時代に大洪水で流された諸堂を再建したという継松法師の名に因んでつけられたものという。
開創は古く聖武天皇の勅願に基づき、ときの代表的指導者、行基菩薩(ぎょうき・ぼさつ)によるとされる古刹だ。日本最初の厄除け観音でも知られる。伊勢33観音霊場第八番札所。写真右は本堂、左は門前からのもの。

005_2 次に松阪城跡の南、こんもりと茂った「四五百の森(よいほのもり)」にある本居宣長ノ宮。写真右中。
006 本居宣長(もとおり・のりなが)は古典古事記の研究で、わが国体と古道を解明して、「大和心」すなわち民族精神の自覚を促す思想学説で知られる。語学、文学、史学など、各方面の創見に富み、殊に国学に著しい社会的進展を与え、明治維新の原動力となった。写真左は彼の愛した「鈴」の石像、境内にあり。

007 同じ敷地内に松阪神社がある。室町末期の天正16年(1588)蒲生氏郷が「矢川の庄」の「宵の森」に築城(松阪城)、鎮守社として造営されたという。
009 この矢川の庄を松阪と名付け、城下町を造成、近在、それに近江の日野商人など招いて、楽市楽座を実施した。
後世、江戸に雄飛した伊勢商人の発祥の地が、ここ松阪の町であったという。

写真上は松阪神社本殿、右は御神木=樹齢900年を数えるという楠(くす)の大古木。写真をクリックすると拡大。(つづく)。
今日からカテゴリーに「寺社集印・東海」を追加。

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